鳥かご 4
「えっと、次は…トイレ掃除だな」
「これが済んだら風呂か」
猫川がこの広い家に来てから1週間が経つ。
今のところの仕事は家の掃除が主だ。
慣れてきたらどんどん新しい仕事が与えられ、
見込みがあると思われれば店や会社を任される可能性だってある、らしい。
1週間前、あの人はそう言った――
・
・
・
・
・
『しばらくは家のなかのことをお願いするわ。メイドがふたり急に辞めて人手が足らないの。
仕事内容はメイド長にでも訊いて頂戴。家や庭の掃除、簡単な仕事だから大丈夫だと思うけど』
嘲るように言った犬山の母貴代香は、家事など一切したことのなさそうな綺麗な手をしていた。
生活感のまったくない女性だと思った。
数ヶ月前にも顔を合わせているが、その時は忙しなく追い返されたからまじまじと顔を見なかった。
よく見れば美人だ。だがなんとなく怖い。
犬山の母親というには若すぎるし、彼を産んだ女にしてはやけにきつい。顔立ちも、言葉も。
『あのこのところでは何をしていたの?』
『犬の世話とか躾とか』
『そう。じゃあ適当に振り込んでおくわ。口座、教えて頂戴』
突然そんなことを言われ、意味がわからず戸惑った。
『振り込むって?』
『あのこのとこにいた分のお給料。悪いわね、すっかり忘れていたわ。ばたばたしていたし。遅くなったけどきちんとお払いしますから』
『いえ、あの……向こうでもらいましたから』
貴代香は意外そうな顔をした。
『そうなの? あの子のことだからお給料のことなんて思いつかないかと思ってた』
確かにもらったのは四ヶ月も経ってからだったが、黙っておいた。
貴代香はなぜかふっと笑って続けた。
『そういえば、あの子お金は腐るほど持ってるんだったわ』
『え?』
反射的に訊き返すと、相手は忌々しげに言った。
『ここを出るときにね、たんまり持って行ったのよ』
まるで盗人を罵るような言い様に、猫川は言葉をなくした。
当然真相を尋ねることもできなかった。
けれどまさか、犬山が何か企てたはずはないだろう。
きっと誤解だ。そう思ったが口にできぬまま部屋を後にした。
・
・
・
・
・
「はあ……」
親子でもうまくいかない場合もあるんだな…
明らかに息子を嫌っている貴代香を目の当たりにして、
物心ついたころからひとりの猫川は不思議な気持ちがした。
そしてなんとなく哀しくなった。
不仲の原因はなんなんだろう?
部外者である自分が気にしたってどうしようもないとわかりながらも、
ここへ来てからそういうことをよく考える。
それだけじゃない。
今頃犬山はどうしているか、ちゃんと生活できているのか、自分がいなくなったことをどう思っているのか…
考えてもしかたないことばかり考えてしまう。
そして胸がきりきり痛むのだ。
早く踏ん切りをつけなくてはとは、思っているのだが…
心はまだあの家に縛り付けられたまま。
「最初からここに来られてたらよかった…」
あの人に出会わなければ、よかった…
何度も繰り返した恨み言を小さく呟きながら、与えられている自室に戻ると、
部屋に見慣れない後姿があった。
メイド姿の若い女だ。
「あらー、あんた可愛い顔してんのねー。でもちょっと臭うなー」
みや夫がちょっと迷惑そうににゃーと鳴く。
「どれどれ〜」
そう言って彼女はみや夫に顔を近づけ臭いを嗅ぐ。
「くさーい。でも嗅いじゃう。癖になりそうー」
しばらく黙っていた猫川はそこで、あの、と声をかけた。
すると女は大げさなまでにびくっと肩を上げて振り返る。
「やだ! いつからいたの!?」
「可愛い顔してるとか言ってた時ぐらいから」
「そうなの! あ、ごめんね勝手にお邪魔しちゃって。私見てのとおりメイドの沙恵」
慌ててはいたが、悪びれた様子は窺えなかった。
「何か、用ですか?」
尋ねると、女はキャットフードの箱を見せてきた。
「これ、猫ちゃんのごはん」
「え?」
なんのことかわからず首をひねると、
「料理長が持っていってやれって」
「なんで?」
さらに問うと、相手はちょっと考えるしぐさを見せた。
「うーん。たぶん私に、坊ちゃんのことを聞き出させようとしたんだと思う」
言いながら、沙恵は餌皿のほうへ歩いていく。
そして勝手にキャットフードを餌皿に入れた。
ますますわからない。
「猫ちゃん、料理長がわざわざ買ってきたごはんなんだから、カリカリでも文句言わずに食べるのよー」
「あの…坊ちゃんって…」
「ここの息子さんの夕紀さんのこと。私は全然知らないんだけど、料理長はここ長いから坊ちゃんのこともよく知ってるみたいで、
心配してるみたいだった。だから、ほらあなたって坊ちゃんのところにいたんでしょう? 訊いたらいいんじゃないかって言ってみたら、
無言でコレを渡してきたの。自分で行くのは嫌だったのねー。まあ料理長って口下手だし」
「そうだったんですか」
厨房の掃除に入った時何度か顔を合わせたことがあるが、確かに無口そうな男だった。
餌皿を満たした沙恵は振り返る。
「で、坊ちゃんは元気にしてるのかな?」
簡単な質問に、猫川は言葉を詰まらせた。
「どう、かな………」
猫川が考えたのは今現在の犬山の様子だ。
もちろんどうしているかなんてわからない。
相変わらずズレたことを考えながら、犬たちの世話に追われ……
元気に……
健康ではいて欲しい。
だけど笑っていて欲しくないと、瞬間的に思ってしまった。
自分がいなくなって平気でいられては嫌だと。
酷い考えだ。
我がままだし、最低だ。
「ねえ」
沙恵の明るい声が聞こえ、いつの間にか俯いていた猫川は顔を上げた。すると、
「料理長と話してみたらどうかな?」
「え?」
子供がいたずらを思いついた時みたいな楽しそうな様子で彼女は言った。
「あの人、坊ちゃんに纏わる逸話をいくつも知っててね。自分からは滅多に喋らないけど訊いたらたまに話してくれるんだ。
たとえば坊ちゃんが小さい頃亀の甲羅干しを観察してて日射病になりかけたって話とか」
いかにもありえそうな話だった。
微笑ましくて、頬が緩む。
「君にならもっといろいろ話してくれるかもしれないし。えっと交換? 坊ちゃんの話のトレードっていうか」
正直沙恵の言っていることはよくわからなかったが、
料理長とは話してみたいと思った。
心配しているなら、彼は大丈夫だと伝えてあげたいとも。
大丈夫という単語に、また胸が痛む。
だけど事実、犬山は大丈夫なのだ。
ぬけてはいても、きちんとひとりで暮らしていける人だ。
傍にいたからちゃんとわかっている。
だから今だってちゃんと犬たちと楽しくやっているはずだ。
俺がいなくても……
それで、いい。……うん。
つづく…