鳥かご 3
「したいようにすれば、か……」
力なく呟いた猫川は自嘲気味に笑った。
何を期待していたのだろうと思う。
引き止めてくれるとでも思っていたのだろうか、自分は。
はあ、とため息をついて、まだ数回しか寝ていないベッドの感触を確かめる。
「買ったばっかなのに、無駄になったな、これも」
住み込みだから、荷物は最低限しか持っていけない。
残念だが、置いていかなくては。
「結構気に入ってたのに」
ひとりでぶつぶつ言っている主人を心配してか、
みや夫が擦り寄ってきた。
「お前もこの家とはお別れだからな、ちゃんと犬たちに挨拶しとけよ」
にゃあ、と返事をするように短い鳴き声。
「ほら、行ってこい」
軽く尻を押して促すと、みや夫はまたひと鳴きしてから部屋を出て行った。
元に戻るだけだ。
みや夫とふたり、働いて食べて、生きていく。
もともとあまり欲はないのだ。
きっとすぐに以前の自分に戻れる。
何度も大丈夫だと言い聞かせ、
落ち込む気分を追い払おうとするが、なかなかうまくいかない。
寂しい、という感情なんだろうな、これは。
今までだって別れはあった。
だけど、今まではすべて割り切ってこられた。
こんなに苦しくなったのは初めてだ。
この家で、知らない感情を覚えたのはこれでふたつめだ。
ひとつめは幸せ。
ふたつめさ寂しさ。
幸せだったから、別れが寂しい。
「幸せだった」
改めて言葉にしてみると、胸が締め付けられる。
こんなことなら、
最初から幸せになんかなりたくなかった。
失う時こんなにも辛いものなら、
初めからいらなかった……
しんと静まり返ったひとりの部屋で、
猫川はまったく眠られずに朝を迎えた。
「猫川君、元気で」
「あんたも」
「…………」
交わしたことばはたったそれだけだった。
犬山はもっと何か言わなきゃと思ったが、
何を言ったらいいのかわからず、
また、言ってはいけないことをこぼしてしまいそうで、
それ以上口を開くことはできなかった。
ドアが閉まる。
切なさが一気に膨らんで、
言ってはいけない言葉が喉まで出かかる。
「……猫川君」
走り去ろうとするタクシーに向かって、
犬山は小さく呟いた。
「行かないで」
それは走行音にたやすくかき消され、
誰にも届かなかった。
けれども犬山自身には痛いほど聞えてしまい、
胸が張り裂けそうになる。
タクシーがもう見えなくなってしまっても、
犬山はしばらくその場を動けなかった。
「…………」
つづく…