鳥かご 2
「なあ……」
猫川の声が聞こえたので、ドッグフードを補充していた犬山は振り返った。
「鳥かごの、ことなんだけどな」
歯切れ悪く猫川が切り出す。
売りに出すだめ、車に積んでおくよう頼んでおいた鳥かごのことだ。
何か問題があったのだろうかと首を傾げると、
相手は、あれな……とさらに言葉を詰まらせる。
猫川は決しておしゃべりな人間ではないが、
こんなふうに言葉を濁らせることもまた珍しい。
「どうしたんですか?」
問いかけると彼はまた考え、
「やっぱり、ちゃんと話したいから二階で、ソファのとこで待ってる」
そう言って、彼は背を向けた。
今までにない神妙な雰囲気。
犬山はなんとなく嫌な予感がした。
「猫川君」
呼びかける声がこわばっていた。
「うん」
やはり冴えない返事を、猫川はしてくる 。そして突然、
「鳥かご、売らなくていいんじゃないか?」
「え? どうして?」
素直な感想だった。
犬山は鳥かごを売ることにさほど拘りを持っていなかったからだ。
「無理して金作ることないって思って」
「無理?」
首をかしげずにはいられなかった。
確かに使っていない鳥かごを売れば僅かでもお金になると思ったし、
猫川にもそう言った。
しかし、それはどうせならという意味だ。
捨ててしまうよりは売って少しでもお金になればいいのではと思っただけだ。
何も生活に困っての発想ではない。
ふつふつと、不安がわいてくる。
以前金銭感覚の違いで彼と喧嘩になったことを思い出したからだ。
「猫川君、鳥かごを売るのは別にお金の問題じゃないんです」
「うん」
頷いたものの納得しているようには見えなかった。
犬山は焦りを覚えた。
もうお金のことで揉めたりしたくない。
せっかく最近になって心を許しあえていたように思っていたのに、
また衝突して彼との距離を広げてしまうのは辛い。
もう一度念を押すべきかと思ったが、
先に猫川のほうが口を開いた。
「今朝、あんたの母親から電話があって」
母親と言われてとっさにはその人の顔が浮かばなかった。
犬山にとって母親とはそういう遠い存在だった。
ようするに、あまり親しくはない。苦手な人なのだ。
自然、気持ちは暗くなる。
「その、あんたの実家のほうで働くように言ってきた」
「え?」
思いもよらないことだった。
事態が飲み込めず、呆けたようになる。
何も言えず、ぼんやりしている犬山に
猫川は、もともとは実家で働く約束だったとか
家にいる犬たちのしつけもある程度済み、 自分がいなくても平気だろうとか、早口で捲くし立てた。
彼の主張は確かに事実ではあったが、犬山の見解としては正しいことではない。
だけど、犬山は違うと口に出すことができなかった。
胸に浮かんだひとつの疑念が、猫川と向き合うことを恐れさせた。
「猫川君の、したいようにすればいいと思います」
そんなことをぼそりと言うしかできなかった。
沈黙ができた。
犬山はこの沈黙にも怯え、黙って立ち上がる。
ややまごつき、のろのろとソファを離れようとする背中に、
猫川が声をかけてきた。
「俺がいなくなったら、鳥、飼えよ。あんただってやりたいことやればいいんだ」
犬山はただ小さく頷き、その場から立ち去る。
俺がいなくなったら――
なんて悲しい言葉だろうと思った。
けれども、まったく予期せぬ言葉ではなかったように思う。
いつか、猫川がいなくなるんじゃないかといつも考えていた。
うちでは仕事といっても犬猫の世話ばかり、給料だって多くは渡してあげられない。
比べて母の住む家はいわゆる豪邸で仕事も多彩にあるし、何より母は多角経営を行う事業家だから うまくいけば店舗のひとつを任されるというような道もあるかもしれない。
猫川の将来を思えばうちなんかにいることはよくない。
彼自身も現状のままでは展望がないことに気づき、いつか家を出て行くだろうと。
犬山の胸に飛来したのは、そういう疑念だった。
彼が自分の未来のためよりよい道を選ぶことを邪魔することなんてできない。
ましてただ彼と別れがたいという自分の勝手な感情で……
階下に下りるとはなこがすり寄ってきた。
犬という生き物は本当に聡い。
心配そうな眼差しを向けられ、犬山は苦笑するしかなかった。
「これで、よかったんですよね、きっと」
つづく…