鳥かご 1




『もしもし?』

電話の向こうから聞こえてきたのは女性の声だった。
なんとなく聞き覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。





急いているような声はあなた、猫川って子かしら? と訊いてきた。

「そうです、けど」

『夕紀は近くにいるかしら?』


自分のことを知っていて、犬山のことを名前で呼ぶ人物はひとりしか思いつかない。
犬山の母親だ。

「今、庭のほうに行ってるので少し待ってもらえれば――」

『じゃあいいわ、あなたで。2,3日中にこちらへ戻ってきていただける?』

意味がわからず返答できずにいると、相手は苛立ったように聞こえているのかと訊いてくる。

「はい。でも、あの戻るってそちらの家にってことですか?」

『他にどこがあるの? もともとあなたはうちで働いてもらう予定だったのだし、
構わないでしょう?』

確かに、本来なら猫川はここではなく犬山の実家のほうで住み込むはずだった。
事情が変わったから縁者、つまり犬山のところへ行ってくれと彼女に言われてここへ来た。


だが、正直今さらという気持ちしかわかない。





「けど、一応こっちでもう働いてるし」

『働く? 何もせず遊んでいるような人のところでどんな仕事があるって言うの?』

せせら笑う。
犬山と母親の関係がよくないものであるのは明白だ。



『家事手伝いならうちから家政婦を寄越しますから、なるべく早く来て頂戴ね』


そう言って一方的に電話は切れた。






なるべく早く、と言われても……

困惑して何も言えなかった。
どうしたらいいのだろうか?

犬山の母の言うことは勝手で、唐突なものではあるが、
100パーセント間違っているということはない。
本来猫川が契約したのはあの家だ。
一時こちらへ派遣されていただけと考えればいつ戻って来いと言われても
おかしくなかったのだ。



しかし……


「猫川君」

電話機の前から動けず考え込んでいると、
背後から犬山が声をかけてきた。

「鳥かごなんですけどね」

言って、新品のままの鳥かごの元へ行くので、
猫川もぼんやりとついていく。
さっきの電話のことをどう切り出すべきかと悩みながら。




白衣の背中を見ながら考える。

話したら、この人はどんな反応をするだろうか?

母親とうまくいっていないのはどうしてなのだろう?

考えてみれば、彼について何も知らない。
知っているのは名前と動物好きということと、誕生日くらいだ。


しかし、それは彼のほうも同じ。


互いにほとんど何も知らない。

結局は他人同士がたまたま同じ家に住んでいるという状況のままなのだ……






「これ、売っちゃおうかと思って」


「え?」


考え事をしていたせいだけじゃなく、
猫川は犬山の言葉を最初うまく理解できなかった。

「でも、大事にしてたんじゃ……」


鳥のいない鳥かご。
ただ単に置いてあっただけのものではない。
犬山がいつか鳥を飼うのだとはりきり、埃をかぶらぬように掃除していたことを知っている。





「やっぱり、みや夫がいるからか?」

今まで考えないではなかった。
いつかちゃんと尋ねようとは思いながら、
みや夫の存在が迷惑と言われたたくないばかりになかなか訊けずにいたのだ。

「そうじゃないですよ。だってどうしても飼いたいなら僕の部屋で飼うとか、
いくらでも方法があるわけですし」

「じゃあ、なんで?」


犬山は少し迷った風な素振りを見せてから、

「お金になるかと思って」

と言った。



「未使用ですし、割といい品なんです。だから使わないで置いておくのはもったいないでしょう?」

どう返事をして言いかわからず、曖昧に頷く。


「なので、申し訳ないんですけど、これ車に積んで欲しいんです」

「わかった」






言われたとおり鳥かごを車に積んで、ドアを閉めた瞬間ため息が洩れた。


金、か……


最初のうちは頻繁に考えていたのに、
近頃は滅多に金のことを心配しなくなっていた。
甘えていたのかもしれない。
もしくは、怯えていたのかもしれない。


現実を知ったら何食わぬ顔でこの家に居続けられなくなるから。


どうするべきか、そんなことわかりきってるな……




つづく…