ひび




清々しい朝の食卓。
いつもどおりシリアルを前にして、
犬山はおずおずと切り出した。







「あの、猫川君。少し、お尋ねしたいのですが」

「ん?」


スプーンいっぱいのシリアルを頬張りながら猫川が首を傾げる。

犬山はそんな必要はないのに声を潜めて言う。

「みや夫くんのことなんですが、実は、僕見てしまったんです」

「とうとう水槽の魚食ってたか?」

「いえ、そうじゃなくて」

犬山は昨夜のことを思い出し、さらに囁くような声になって続けた。






「昨日、みや夫くんと遊んでいたんです。今まであまりコミュニケーションをとっていなかったので、 今さらながら仲良くなりたいと思って」

「ああ。ひっかかれなかったか?」

「はい。それは大丈夫だったんですが、えっと、みや夫くんの、その……」

口ごもる。
が、こんな中途半端なことろで話をやめるわけにはいかない。



「股間のことなんですが」

思い切って言うと、目の前で猫川がびっくりしいて目を見開く。

「ついてなかったんです」

「は?」

「だから、その、ナニがついてなくて」

あるべきものがなかったのだ。
最初は当然手術をしたのだろうと思ったが、
よくよく見てみればそうではなかった。






犬山はしばらく呆然としてしまった。
おかげで、長時間抱かれっぱなしだったみや夫は暴れだし、
仲良くなるどころではなかった。



「みや夫くんは、メスなんですね」

神妙に確認を取ると、相手はあっけらかんと頷く。





「っていうか、今まで気づいてなかったのかよ」

「そりゃあ、むやみに股間を見たりしませんし。
だいたいみや夫なんて名前だからオスだと思い込んでいたし」

「ああ、まあ、そっか」

「なんでみや夫なんて名前なんですか? 女の子なのに」

真剣な質問なのに、猫川は笑った。

「女の子って……。みや夫って名前は先に付けたからな。性別確認する前に」

「そんな。もしかして、鳴き声で?」

「そう。とりあえず呼び名がないと困るし、ネコって呼ぶのはイヤだしな」

自分が猫川だからか、と思った。

それにしたって、





「なんで夫がついてるんですか?」

みや夫と書くのだということは、
彼らがここへ来て間もない頃に尋ねて教えてもらった。
ミヤオという響きが可愛いので、夫がついていると聞いてちょっと残念だった覚えがある。
メスだと知った今はなおさらだ。

「別に意味はねーんだけど、みやおじゃなんか甘っちょろいかなーと思って。
それにあいつ可愛げないしオスっぽくしといたほうが似合うだろう?」

犬山は、もしかしたら名前のせいでああいう性格なのでは? と思った。
名は体を現すというし。


けれど、


「まあ、名前なんてどうでもいいんだよ。 つうか、あんたのほうがタロウとはなこなんてベタすぎと思うけど?」

と逆につっこまれたので追及するのはやめ、
どうせ僕は命名センスがないんです、と内心でいじけた。












(ほらほら、もっと犬らしくうなってみろよにゃ。ちっとも怖くないぞ)

穏やかな午後。
犬山家では相変わらず犬猫がどたばたどたばた。

(うるさいなー。ほっといてくれよ)





(逃げるのか弱虫め! 犬なんだったらもっとしっかりにゃいとネズミに尻尾を齧られるぞ)

(ボクは弱虫なんかじゃない。お前みたいにガキじゃないだけだ)

(なんにゃとー!)

所狭しと走り回る犬と猫に猫川の怒声が飛ぶ。

「遊ぶんだったら外で遊べよ」

(遊びじゃないんにゃよ。わかってにゃいなー、依玖は)


飼い主の心猫知らず。
はしゃぎだしたらいつも言うことをきかなくなる。
やっぱり今からでも「みやお」に改名するべきかなどと思いながら、
猫川はくすりと笑った。



平和だ。
このところずっと。


犬たちもみや夫も一度公園に連れて行ってからはわりといい子にしているし、
犬山は相変わらずとんちんかんだが、
苛々することはなくなった。
彼が変わったわけではなく、自分のとらえ方が変わったのだろう。



ずいぶん馴染んだと思う。
馴染みすぎているくらいだ。

そんなことを考えると、最近きまって胸の奥で得体の知れない不安がざわめきをたてる。


ずっとこのままなんて、たぶん無理なのにな……


こっそりため息をついた時、電話のベルが鳴った。





それは優しい日常へヒビが入る瞬間だった。



つづく…