給料
「あ、猫川君」
ある日の昼下がり。犬山は仕事を一段落させたらしい猫川に声をかけた。
のんびりソファに座っていた彼はふいと視線を上げ、立ち上がった。
そのまま近づいてきて向かい合う。
「遅くなっちゃったんですけど……」
言いながら、犬山は白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「何?」
猫川は相変わらずぶっきらぼうだが、
そのなかにある感情を、そろそろ読み取れるようになってきた。
今のこれは別に怒っているわけじゃない。
そういうことがわかってくると余裕ができる。
犬山はにっこり笑って、ポケットから取り出した封筒を手渡した。
「なんだよ、これ?」
「お給料です」
犬山の回答に、猫川はきょとんとする。
「給料?」
「はい。君がここへ来てからの四ヵ月分入ってます」
自分で口にしてみて、
もう四ヵ月も経ったのかと驚いてしまう。
あっという間だった。
けれど、月日は確実に過ぎた。
犬たちは猫川にすっかり懐き、猫川も仕事を覚え、
そして、犬山も猫川に慣れた。慣れすぎたくらいかもしれない……
「……なんで?」
「なんでって?」
「俺、金もらうようなことしてない」
「何言ってるんですか? あなたはちゃんとここで働いてるじゃないですか?」
謙遜……ではなく、本当にわかっていない風だった。
「タロウが稼いできてくれるのも、君がしっかりしつけてくれたからでしょう?」
どうしたって甘やかしてしまいがちな犬山と違って、
猫川はきっちり教えてくれる。それもきちんと愛情を持ってしてくれるから、
安心して任せられる。
「でも、住まわせてもらってるし」
「だから、一応下宿代は抜いたつもりです」
とまどって、いつまでも受け取ろうとしない猫川に、 犬山は現金の入った封筒を押し付けた。
「………」
無理やり渡された封筒をじっと見つめる猫川。
あまり恐縮されると、こちらのほうが居た堪れなくなってくる。
「本当に大した額じゃないんです。だから受け取ってください」
「……わかった」
小さな返答にほっとする。
それと同時に微かな不安が頭をもたげるが、
自分自身、気づかないフリで笑顔を作る。
「せっかくだから、今日はどこかでかけてきたらどうですか?」
猫川はまた戸惑った顔をする。
「今日はもう仕事は上がりにしていいですから」
「…………」
「何か、欲しいものとかあれば買って来たらいいですよ。車使っていいですから」
猫川は少し考えた後、浅く頷いて1階へ降りていった。
背中を見送ってしまうと、
自然ため息がこぼれた。
四ヵ月分。渡したお金はそれなりの額だ。
アパートを借りる敷金ぐらいにはなるだろう……
複雑。
数日前、
猫川に給料を渡すことを思いたった。
彼が時々求人誌を見ていることを思い出して、
そうしなくちゃと思った。
義務感や同情心もあるにはあったが、
大部分が、そうでもしないと彼を引き止めておけない気がしたからだ。
お金で繋ぎ止めようなんて狡猾だとは思ったが、
今彼にいなくなられるのは寂しすぎる…
けれど、お金を渡してしまったらしまったで、
彼がここを出て行く術ができることになる。
数日間ぐるぐると悩んだが、
結局は少し多すぎるかもしれない額の給料を渡した。
猫川には感謝している。さっき彼に言った言葉はひとつも嘘じゃない。
給料を渡すのは当然のことだ。
女々しい考えから、あたりまえのことをしないわけにはいかない。
それに…
彼が出て行きたいなら、金があろうとなかろうと出て行けるのだ。いつだって。
自分には、止める権利などない。
寂しいなんていう感情は、人の人生を左右するほどの理由にはならない。
まして他人。たった四ヵ月一緒に過ごしたというだけの、他人なのだ。
ぼんやり考え込んでいると、雨の音が聞こえてきた。
窓の外はかすんでいる。
猫川君……
地面に落ちた雨がシミを広げるように、
ぽつりと湧きあがった不安が、静かに犬山の心を占めていくのを感じた。
欲しいもの、か……
降り注ぐ雨のなか、猫川はぼんやり考えた。
欲しいもの。
咄嗟には思いつかない。
それよりも、給料をもらえたこと自体にまだ驚いている。
大したことなどしていない。
犬の世話は苦にならない。しつけもそうだ。
やっぱりあの先生はズレてるな……
そう思っても、以前みたいに不快じゃない。
どこかくすぐったくて、面映い。
金をもらったのが嬉しいんじゃない。
ちゃんとやっていたと、認められたのが嬉しいのだ。
こんなことでにやにやするなんて、バカみたいだ。
自分自身に苦笑する。
ひとつ屋根の下で暮らしてきたせいで、
あの天然先生に感化されたのかもしれない。
変な感じ……
何を買おうか?
車を降りて考える。
封筒は結構厚みがあった。
部屋を借りる頭金ぐらいにはなるだろう。
ふと空を見上げる。
細かな雨は降り続いている。
気分が悪くないときは、
雨に濡れても、別にイラつかないものなんだな。
降り止まない雨の下、
猫川はまたひとつ苦笑した。
つづく…