初歩


あいつが突然変なことを訊いてきたのは、2月に入ってから。
俺はもうここを出ようと、住み込みの仕事を探し始めていた時だった。










「猫川君、君、誕生日はいつですか?」


「……は?」

「誕生日ですよ」

犬山がいつになくはきはきと話すので、猫川は気後れしていた。
ここ最近互いが互いを避け、言葉もほとんど交わしていなかったのに、なぜ急に誕生日などを尋ねるのか?
訝る以前に、唖然となった。



「なんで、そんなこと……」

「なんでって、僕考えたんですが、家族っていうのは意外と互いのことを知らないでしょう?」

「家族……?」

また不可解な単語が飛び出してきた。

「職業はまあ当然知ってますけど、身長や体重は知らないし、過去なんかも知っていてせいぜい卒業した学校名ぐらい」

猫川は相槌も挟まず聞いていた。

「父や母が昔のことを話して聞かせてくれることはありますが、それはあくまで思い出であって、パーソナルデータとは言いがたいと思うんです。 人によっては脚色もしますし、主観的なものですから」


ぺらぺらぺらとよく喋る。
何か変なもんでも食べたんじゃないかと思って、彼の前にある皿を覗けば真っ黒こげの何かが盛られていたので、
猫川は冗談じゃなく、心配になった。



「猫川君。僕気づいたんですよ」

「……何を?」

猫川は恐る恐る訊いた。

「だから、誕生日ですよ」

「だから、何が?」

「家族がほとんど必ず知っているパーソナルデータです!」

犬山は大発見だと言わんばかりの顔をしている。
しかし、正直なところ猫川にはピンとこない

「今朝、これに気づいて、僕はなんだかどきどきしてしまって」

饒舌の原因はこの大発見、ということはわかった。
それと、この先生が意外と子どもっぽいということも。



「ね、すごいでしょう??」

「まあ……」

子どもみたいなきらきらした目で言われたら、
すごいと思っていなくても、頷かないわけには行かなくなる。


「で、誕生日はいつですか?」

「なんでそうなるんだよ?」

「それはその……」

さっきまでの饒舌はどこへ行ってしまったのか、
犬山は突然もごもごとする。

「理由はともかく、誕生日、いつなんですか?」

「…………」

「猫川君、誕生日――」

「べ、別に、あんたに教える義理ねーだろ」



猫川が急に大声を出したので、
犬山は目をぱちぱちさせた。


それから、小さな声でごめんなさいと謝ってきた。

沈黙ができる。

あんなに楽しそうにしていた男が、しゅんと小さくなって焦げたご飯を黙々食べる。

ああ、もう。

「22日だよ」

ぞんざいな猫川の声に、犬山が顔をあげる。

「月は? 猫川君」

「……今月」



「今月の…22日」

犬山は目を天井に向けて頭を巡らせている。

考えなくていい。そう制する暇もなく、犬山はあ! と大きな声を出す。
猫川は絶望的な気持ちになる。
この男が知らないはずがない……

「猫の日じゃないですか!! にゃんにゃんにゃんの!!」

なにもそんなに大声で言わなくてもいいのに、
発見大好きな目の前の男は、再び目を輝かせている。
猫川は顔が赤くなるのを感じた。


猫川が猫の日に産まれるなんて、漫画もいいとこだ。
だから誕生日だけはひた隠しに生きてきたというのに……


「大丈夫ですよ」



元気を取り戻した犬山は断言する。

「何がだよ…?」

人事だと思いやがって……
一見ばかばかしくても、本人は本気で悩むことだってある。
猫川にとっては誕生日がまさにそれなのだ。

他人に何がわかる?

そう思ってやさぐれる猫川に構わず、犬山は元気に言った。

「だって、僕の誕生日も11月1日で、犬の日なんです」

「……え?」

「からかわれたこともありましたけど、僕は犬が好きだし嬉しいですよ。猫川君も、猫が好きでしょう?」

「……そりゃ、そうだけど」

「だから大丈夫ですよ」

正直、意味がわからない。
猫が好きだと言うことは、大丈夫だと言う根拠にはならない。
だけど、なんか……

「あんた、変だよな」

「え? 変じゃないですよ」

「変だよ。つうか、それこげてる」

「ち、違いますよ。これは、その……イカ墨です」

「苦しいよ、その嘘」

「……すいません」



それは間違いなく、
犬山と猫川の、はじめの一歩だった。



つづく…