鳥かご 最終回
家のなかも外観同様、昔とほとんど変わらなかった。
広い玄関も、長い廊下も、壁にかけられた絵も一緒だった。
懐かしく思ったが、郷愁に浸る余裕はなく、
応接間に通された犬山は緊張して落ち着かなかった。
「返して欲しいって言ったけど、あの子はもともとうちと契約したのよ」
開口一番、母は素気なく言った。
「わかっています。けれど――」
「だいたいいきなり困るわ。うちは人手不足だし、せっかく彼、家のこと覚えてきたところですもの」
「でも――」
「だいたいなんなの? もうあの子が来て2週間よ。その間何も言ってこなかったじゃない」
「それは……」
畳みかけてくる母の言葉にどうしたってたじろいでしまう。
防戦一方になって窮している犬山に、
母はとんでもない言葉をなげかけてきた。
「もしかして、復讐のつもりなの?」
犬山は絶句した。
復讐という言葉に眩暈さえ覚えそうになる。
「あなた、私のこと恨んでるものね。夫に…あなたの父親に愛人ができたことを自分のせいにされて
冷遇されたこと、根に持ってるんでしょう?」
首を横に振った。
恨んでなどいない。
確かに、母に対して複雑な心情を持ってはいる。
幼い頃、ある日を境に母はなぜか笑いかけてくれなくなった。
それが夫、犬山の父親に愛人ができたせいだと知ったのは、
中学へ上がった頃だった。
たまたまメイドたちの話を聞いてしまったのだ。
父は母が妊娠した頃からちょくちょく遊び歩くようになり、
犬山の成長とともにその頻度は増し、
とうとう愛人のもとから帰ってこなくなったらしい。
母が息子の存在を厭うようになるのも無理はない。
犬山が父とそりが合わなかったのも悪かったと思う。
犬山は動物と遊んだり、自然と親しんだり、
そんなことにばかりかまけて、父が望む勉強にはついていけなかった。
会社を継ぐなんて自分には無理だと言って、失望させたこともあった。
ちぐはぐな家族だったと思う。
そして修正できないまま父が他界し、
母はより心を閉ざした。
犬山は息苦しさに耐え兼ねて家を出た。
だけど恨んだりしてはいない。まして復讐なんて…
「嘘よ。屋根裏に閉じ込められて、憎まないはずないわ」
「憎んでなんていません」
「じゃあ、どうして今になってあの子を返せなんて言ってくるのよ」
犬山は背筋を伸ばし、はっきりとした口調で告げる。
「彼が必要だからです」
母が目を丸くしたのがわかった。
「なんですって?」
「私には彼が必要なんです」
「どうして? 家政婦なら送ったでしょう? それも断ったらしいわね」
「家政婦じゃないんです、欲しいのは。…実はしつけ教室を始めたいと思っていて、その手伝いを――」
「ふうん。また新しいお遊びを思いついたの」
バカにされ、さすがに腹が立った。
「私は本気です。しつけ教室を開いて誰かの役に立ちたいんです。それには猫川君の力が必要なんです」
毅然と言い切った。
言葉にすることで、なおさら決意が固まった気がして、
だからあえて犬山は繰り返した。
「猫川君と一緒に挑戦してみたいんです」
しばらく沈黙が流れた。
母は眉間に皺を刻んで、じっと何かを考え込んでいた。
犬山はある種の興奮のなか、鼓動を早めて母の言葉を待った。
ふいに、母が立ち上がる。
「相変わらず可愛くない子。嫌味にさえ傷つかないくらいぼんやりしてるくせに、
変なとこで強情…」
「…………」
言葉を探そうとする犬山に母は言った。
「いいわ。連れて帰りなさい」
「本当ですか……?」
「ただ、本人が行くっていうかは知らないわよ」
去っていく母の背中に礼を言ったが、
彼女は振り返らなかった。
だけど犬山は、もう一度言う。
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猫川が屋敷に帰ると、なぜか門の前に犬山がいてびっくりした。
「どうしたんだよ、あんた」
見れば、スーツを着て髪まで切っている。
今更就職活動か? と訊ねたくなるがまさかそうではあるまい。
「猫川君。あの、私、しつけ教室をしようと思うんです」
突然そんなことを言われ、猫川は呆然とした。
「しつけ、教室?」
「そうです。犬や猫のしつけで困ってる人って結構いるみたいなんです。
私でも少しはそういう人たちのお役に立てるかと思って」
なるほど。
ようやく理解した。
「確かによさそうだな」
犬山には適職だと思う。
賛同すると、犬山は実に嬉しそうな顔をした。
そして、
「猫川君にも、ぜひ手伝って欲しいんです」
「俺に?」
猫川はきょとんとなった。
「はい。猫川君が必要なんです」
犬山はまっすぐに見据えてくる。
つまりそれって…
徐々に胸が騒ぎ始める。
犬山は自分を見つめたまま続けた。
「帰ってきてもらえませんか?」
心臓がどくんと高鳴った。
胸のうちを喜びが広がっていく。
頭のなかで、同じ言葉が何度も繰り返す。
――帰ってきてもらえませんか?
俺が帰ってもいいのか?
と思った。だけどあえて口には出さなかった。
帰りたいと、思ったから。
ずっと思っていたのだ。
帰りたいと焦がれていた。
まさか叶うとは思っていなかった。
犬山が自分を必要としてくれるとは……
犬山の気が変わってしまう前に、返事をしなくては。
母親には許可を取ったとか、やりがいある仕事になるよう努力するとか
一生懸命に言い募る男に、猫川は言った。
「すぐ帰り支度してくる」
瞬間、犬山がぱあーっと明るい顔になって、
大きく大きく頷いた。
「はい。待ってます!」
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「お手。そう、これがお手だ」
猫川の声に呼応するように、小さな犬はワン! と鳴く。
「いい返事だ。覚えろよ。お手、お手だぞ」
根気よく犬の手を自分の手に乗せる。
しつけは努力の積み重ねだ。
でもだからこそ、しつけを終えたときの達成感は堪らない。
犬山の犬たちをしつけるのも楽しかったが、
きっちり仕事としてやるのはいい緊張感があり、やりがいを感じる。
最初しつけ教室をやると聞いた時は犬山にとって適職だと思ったが、
自分にとっても天職だったかもしれないと、最近猫川は思う。
「よし、いい子だ。次はちんちんだ。ほら、こうするんだぞ」
犬は遊んでもらっていると勘違いしてはしゃぐ。
ほほえましくて、猫川はつい笑ってしまう。
「こーら、違うぞ。真似してみろ。こうだ」
ワン!
犬の元気な声が庭に響く。
まだしばらく時間がかかるな、
そう思いながらも、猫川は愉快だった。
「先生たちのおかげで、こいつも随分いい子になりました」
半月前ぐらいから通ってきている犬の飼い主が
嬉しそうにそう言った。
犬山も喜んで、それはよかったですと笑顔で答える。
「前は家具を噛みまくって大変でしたけど、今は大人しいものです。
これで安心して新しいアパートに引っ越せそうです。いや、新しいって言っても
すごい古いアパートなんですけどね」
もう少し通ってもらったら、しつけも完了ですので」
「はい、よろしくお願いします」
「こちらこそ。でも、彼に会えなくなるのはちょっと寂しいですね」
つい洩らした本音に、飼い主が笑う。
「しつけが終わっても遊びに来ます。こいつ、先生のとこの犬たちと友達になりたいみたいだし」
そう聞いて、犬山は心のなかが温かくなるのを感じた。
とても幸せなことだと思う。
しつけ教室を開いて、本当によかった。
「ぜひ来てください。いつでも歓迎します」
「思いつきで始めて不安もあったけど、やっぱりやってみてよかったです、しつけ教室」
犬山が言うと、猫川も頷いた。
「そうだな。俺も、毎日充実してる」
その言葉が嬉しくて、犬山は顔を綻ばせた。
本当は彼を連れ帰る時少し強引だったんじゃないかとか、
やっぱり犬猫の世話ばかりでつまらないんじゃないかとか、
ちょっと危惧していたのだ。
彼が嫌々ここに留まっているんじゃないというのが、
どれほど犬山を喜ばせるか、きっと猫川にはわかるまい。
そんなことを考えていると、ふいに猫川が呟く。
「あんたには感謝してる」
突然だったので意味を理解できず、犬山はえ? と聞き返した。
すると猫川は顔を背け、
さっきより小さな声で繰り返す。
「あんたに感謝してるって言ったんだ」
ふわりと優しい感情が全身を包んだ気がした。
「そんな…私のほうこそ。帰ってきてくれてありがとうございます」
「いや、うん…」
気恥ずかしさにお互い黙っていたが、ふと猫川が立ち上がった。
「先生、ちょっと立って」
言われた通りにすると、彼は右手を差し出してきた。
「なんて言うか、改めてよろしくって言うか……」
気がついて、犬山は猫川の手を握る。
握手。
初めての彼との握手だ。
「よろしく、猫川君」
手が離れる。
だけど温かさはいつまでも残ると思った。
「俺はまだあんたのことよくわかってないと思うし、知らないことも多い。
あんたも俺のこと全部理解してるわけじゃない。だからこれからちゃんと話とかして……」
だんだん照れくさくなってきたのだろう。
猫川の言葉は尻すぼみになっていく。
犬山は微笑んで、彼が言いたいだろう言葉を口にした。
「家族になりましょうね」
「これからゆっくり家族になりましょう、猫川君」
相手は、ちょっと恥ずかしそうに頷く。
「うん。よろしく」
はにかむ彼を見て、犬山は思った。
もうここは鳥かごじゃない。
ふたりは思う存分に翼を広げ、羽ばたかせている。
自由なのだ。
自由な意思で、ふたりはこの家で暮らす。
互いが望んで、家族になる。
それはとても幸せな選択だと、心の底からそう思う。
「ありがとう」
誰に向けていいかわからない言葉を口にすると、
目の前の男が優しく笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう」
おわり